- 『ビジネススクールでは学べない 世界最先端の経営学』
- http://www.amazon.co.jp/dp/4822279324/
これを読んでる。
この本の中で「トランザクティブ・メモリー」という話がでてきた。概要は以下のコラムに書いてる。
- http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130925/253852/
- http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20150420-00010000-biz_jinji-nb
かいつまんでいうと、組織学習においては
組織全体が「同じ知識を記憶すること」ではなく、「組織内で『誰が何を知っているか』を把握すること」である
ということらしい。これは経験的にも、自分の直感にも通じる。その主調の正当性とかは先の URL などを参照。
重要なことは「What」を共有することよりも、「Who」を知ること、つまり情報共有について情報そのものではなく「誰が言ったか」というところに着目する、という点
こないだ yaotti と飲みにいったときに「Qiita:Team は "誰が" ではなく "What" に着目している (そしてそれが、Qiita:Team における根本的な設計ミスなのではないか)」というディスカッションをしたけど、それを思い出す話だった。
先のコラムにも書かれているように、組織が大きくなってくると組織全体で同じ知識を記憶することは、日々扱う情報量が膨大になってくるためそもそも不可能である。それを諦めて「誰が知ってるのか」を知っておくに留めることで、仕事上に支障がないように努める・・・ということはおそらく常識的なビジネスパーソンであれば、自覚的にしろ無自覚にしろ、誰もがやっていること。
この「組織が大きくなってくると情報多すぎてつらい問題」は、「Qiita:Team を組織の成長と共に使い続けるのが難しくなってくる問題」と直結している。「情報がたくさん流れると Qiita:Team が機能しない」というのは「検索が悪い」とか「インターフェースが悪い」「情報を整理するための仕組みが不足してる」とかそういう機能的な話ではなく、そもそも Qiita:Team が What に着目した情報共有ツールでありそのアーキテクチャが支援するものが「What の共有である」・・・つまりそもそも限界を抱えてる構造に向かわせるツールである・・・という根幹の部分に起因しているんじゃないか。
先日の話では
- Qiita:Team の検索は「誰が書いてたか」を頼りに検索させるのが正しいはず
- Slack の分報は ("分報" ということが重要なのではなくて)、What ではなく Who に着目した情報共有手段であることが重要
という話をしたと記憶しているけど、これも全部同じ話に繋がっていくと思う。Qiita:Team 投稿した自分の記事が「自分のブログというようには認識できない」という話も同じ。
やはり、緑じゃないほうの Qiita:Team に関してはこの辺の根本の部分というか、コンセプトは、この「トランザクティブ・メモリー」とかいう部分を高める方向に振るのが大切なのではないかな。
すなわち「Qiita:Team を使って得られる結果」として「組織全体が "誰があの情報を知ってるか" を自然とわかるところへ導く」という目標にフォーカスしてもらいたい (そしてそっち方向に転換する) ってのが、ユーザーとしての希望。その実現のためには、もっと個人が Qiita で発信しやすくなるようにみたいな、分報と呼んでるものが内包している UX がヒントになる、はず。
これまではそれを自分の過去の成功体験になぞらえてしか説明できなかったけど、もう少し一般性のある角度から (企業内の情報共有という観点においてはという条件付きで) やはり「人」に着目すべきであるということが言えると思った。
ちなみに、似たような感覚というか、違和感を以て作ろうと思ったのが HBFav なのです。
ユーザーの多くは人気エントリーとか注目エントリーとか、そういう「記事」そのもの (What) を重要視する傾向にあるけれども、自分としてはこの情報爆発の時代においては、What に着目した情報収集というのは限界もあるし、記憶の定着という意味でも効率的でないとずっと思っていて、やはり「人」に着目して情報を取捨選択するべきではと思っている。これはもうずっと揺らがない俺の価値観。
そしてこれは、Twitter にせよ GitHub にせよ、昨今我々の必須ツールになっているソーシャルな道具に共通する特徴。
すなわち「ソーシャル・メディア」という「メディア」の本質は、集合知であるとかUGCとかそういうことではなくて、「情報の共有にあたって(情報量が爆発している昨今において) 『人』に着目する転換を発露する」ということにあるだろう、と思うのです。