作詞 土井晩翠 (1871-1952)
作曲 瀧廉太郎 (1879-1903)
編曲 山田耕筰 (1886-1965)
春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして
千代の松が枝わけいでし むかしの光いまいずこ
秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
植うるつるぎに照りそいし むかしの光いまいずこ
いま荒城のよわの月 替わらぬ光たがためぞ
垣に残るはただかつら 松に歌うはただあらし
天上影は替わらねど 栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお 嗚呼荒城のよわの月
明治期には学校教育において、西洋式の唱歌として海外の歌を日本語訳した「翻訳唱歌」が広く歌われていた。西洋の音楽の形式が一般的になるに従って、日本人作曲家による自然な日本語の西洋音楽が求められることとなる。
1898年、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)からの依頼を受け、土井晩翠は「荒城月」の詩を制作、1901年にその詩に対する旋律が公募された。その結果、瀧廉太郎の曲が中学校唱歌として採用される。(この時「荒城の月」の他に「箱根八里」と「豊太閤」も応募しており、いずれも採用されている。)当時の土井は島崎藤村と並ぶ時代を代表する詩人、瀧は東京音楽学校の研究科の学生であった。 荒城の月から2年後の1903年、瀧廉太郎は結核に冒され23歳で亡くなる。短命ではあったが、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」、「お正月」など広く知られる児童向け作品も多数手がけた。
1917年、指揮者として活躍していた山田耕筰は、渡米を前にソプラノ歌手・三浦環に「荒城の月」の編曲を依頼され、ピアノの伴奏をつける。その時、下記の変更を加える。
- ロ短調からニ短調へ
- テンポをAndanteからLentoに変更。八分音符をベースに書かれていた楽譜を四分音符ベースに。全体で8小節だったのが16小節とした
- 「花の宴」の"え"の音を半音下げた(シャープをとった)
- 「ちーよーのー」を「ちーーよのー」にしてためを作った
山田版の方が今日の日本人が思い浮かべる「荒城の月」となっている。
http://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyo00taki.htm#kojonotuki
https://www.guidoor.jp/media/kojo-no-tsuki-takirentaro/